歴史

2010年8月15日 (日)

東アジアの歴史観

民放CSやスカパー、ケーブルテレビ等で「朱蒙」が放映されているようだ。舞台となる高句麗や扶余については現在、中華人民共和国の一部となっている。この時代は国家として形成がどの程度まで進んでいたのかわからない面もあるが、君長(部族または民族の長)制をベースに緩やかな連合のような形になっていたようだ。その歴史観について、中国と朝鮮、韓国と見解に大きな隔たりがあるようだ。高句麗の歴史を中国とするか朝鮮とするかということらしい。民族的には漢民族とは同一民族ではないようだ。朝鮮半島で言語が複数あったとされていているようで、高句麗と朝鮮半島南部では、同一言語ではなかったようだ。また漢に対して朝貢もあったようだが、「朝貢=属国の証」とするのもかいささか違うような気もする。境界に生きる人々を現在の国境という一つの線で区切るのは難しいのかもしれない。(参考論文) 

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2010年1月 1日 (金)

卑弥呼と倭国

3世紀ごろ、大阪のにある古墳群から朝鮮半島から来たと思われる鉄製品が出土しているようで、畿内に国家があったと考えているようです。では卑弥呼はどこで治めていたのか。これは結論が出ないようだ。

朝鮮半島に任那日本府があったと習ったが、私が思うに3世紀の朝鮮半島の加耶に、日本の行政府があったと思えない。最近の教科書には任那日本府の記述はないそうだ。太王四神記で有名になった広開土王碑には倭国と戦ったと記してあるようで、朝鮮半島に当時日本人がいたことは間違いないようだ。

神道の八咫烏と高句麗の三足烏が似ているのは偶然か? 韓国の加耶あたりから日本にしかない勾玉などが出土しているのは偶然か。おそらく詳しいことはわからないだろう。でも朝鮮半島から文化がもたらされ、滅亡した百済の帰化人も日本に多くいたとされていますし、頻繁な交流があったのも間違いはないようだ。

247年と248年に皆既日食が日本であったようだ。卑弥呼が死んだのが248年。日食と関係があった可能性は大きい。天岩戸はこの時ではないだろうかという説もあるようで、卑弥呼は天照大神ということか? 

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2009年2月28日 (土)

縄文人と弥生人

神奈川大学短大の教授だった網野善彦著「東と西を語る日本の歴史」という本を読んでいる。冒頭は他の歴史学の学説引用が多く見受けられるがこれが興味深い。少なくとも学校の歴史教科書にはほとんど書かれていないことばかり。もともと日本の東部と西部では人種が全く違うそうだ。西部は弥生人と呼ばれ農耕民族でアジア北方民族、東部は縄文人と呼ばれ狩猟民族でアジア南方系だそうだ。もともと日本は南方系が主で、朝鮮(韓)半島から流入してきたと考えられているようだ。

また網野先生の文献には明記していないが、朝鮮(韓)半島でも北方系と南方系が混在するようだ。日本の東国と西国では文化も言葉も生活様式も全く違っていたのは人種が違うためだということだ。しかし、時間をかけてこれらが混血されてきたため日本人というものがでできあがってきた。しかし、アイヌ部族、琉球族だけが縄文人の血筋をそのまま残した形となったようだ。東国は文化が遅れていたが、西国とのかかわりはほとんどなかったようだ。大和(今の日本)が形成されるころには東国もだんだんと支配下におくようになっていった。今の日本の領土が確定したのは明治維新になってからの話で近世の話だ。それまでは政治は多元的に行われてきた。また奈良時代あたりでは多くの渡来人がまだあったようだ。東国は狩猟民族であるため、馬を操り武芸にたけていた。また西国は農耕民族であり、農業や貿易などにたけていて街が発展した。しかし西国は海賊に苦しめられ、東国は騎馬集団の追剥などに悩まされたようだ。現在の日本では、弥生人顔と縄文人顔の比率が7:3になっているようで、弥生人が相当数流入してきたと考えられるようだ。縄文人顔、弥生人の特徴は、馬場悠男先生というお方が紹介されています。韓国人の顔と日本人の顔はほとんど区別がつかないのは、同じ人種であるからだということで間違いはないようだ。

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